最近の福祉・支援の在り方を問う
―本人を支え、本人に向き合ってもらうこと ―
先日、65歳を過ぎた障害のある方の病院カンファレンスに参加しました。
本人は、数年前に親から引き継いだ会社の経営が立ち行かなくなり、その後に手掛けた事業もうまくいかず、最終的に破綻しました。負債を抱え、自宅のビルも競売にかけられることになり、住む場所を失う危機に直面しました。その結果、グループホームへの入所に至っています。債務整理の段階から弁護士が関わり、現在は成年後見制度も利用しています。
本人に認知機能の問題はありません。しかし、自由奔放で、自分の思うように生きてきた方です。そのため、グループホームというある種の集団生活に対して、不平や不満が絶えません。生活上の自己管理についても、本人が思っているほどにはできていません。不摂生な食事と睡眠、その結果体調を崩して入院しました。
病院のソーシャルワーカーから出されたカンファレンスの主旨は、こういうものでした。
「どう伝えれば、本人にこちらの話を理解してもらえるのか? どう言えば、指示に従ってもらえるのか?。伝え方について相談したい」とのことでした。
ホームでの生活に於いても、さまざまな問題が生じています。若い異性の職員に対するセクハラ行為・食事への不満と職員の対応に対する苦情などです。また、本人は65歳を過ぎているので、今後も障害福祉の施設で生活することが適切なのか? それとも高齢福祉の施設へ移るべきなのか? そうした問題も話し合われました。
「どう伝えれば、本人にこちらの話を理解してもらえるのか? どう言えば、指示に従ってもらえるのか?。伝え方について相談したい」とのことでした。
ホームでの生活に於いても、さまざまな問題が生じています。若い異性の職員に対するセクハラ行為・食事への不満と職員の対応に対する苦情などです。また、本人は65歳を過ぎているので、今後も障害福祉の施設で生活することが適切なのか? それとも高齢福祉の施設へ移るべきなのか? そうした問題も話し合われました。
入院前は弁護士が、月に一度、医療機関の受診の付き添いをしていました。また、金銭管理などの権利擁護のため、毎月訪問・外出にも付き添っています。病院側は、弁護士にそこまで負担をかけていることについても、心苦しく感じているようでした。付き添うのが弁護士でなければ、話題にならなかったでしょう。
「本人は本当に困っているのか?」 関わりの中で、本人とは何度か話をしました。
本人に対する、私の受けた印象は「少し偏屈な、昔ながらの昭和の伯父さん」といった感じです。
私は、本人に対して「情報提供と課題の整理」をすることを中心に関わっています。本人が自分の置かれている状況を理解し、何が課題なのかを整理できるようにすること。それは本来、ケアマネ・相談員の役割だと考えています。
本人に対する、私の受けた印象は「少し偏屈な、昔ながらの昭和の伯父さん」といった感じです。
私は、本人に対して「情報提供と課題の整理」をすることを中心に関わっています。本人が自分の置かれている状況を理解し、何が課題なのかを整理できるようにすること。それは本来、ケアマネ・相談員の役割だと考えています。
しかし、施設も病院も、話し合いたいことは結局のところ、「どうすれば本人に言うことを聞いてもらえるか」ということでした。
そもそも、本人は苦情は言いますが、本当に今の生活に困っているかという疑問に対しては、「本当に困っているという自覚がほとんどありません」でした。
そもそも、本人は苦情は言いますが、本当に今の生活に困っているかという疑問に対しては、「本当に困っているという自覚がほとんどありません」でした。
自宅を競売にかけられそうになり、住む場所を失うかもしれないという状況になっても、周囲が施設を探し、入所できるように支援しました。入所先が決まるまでの間は、一時的にアパートで生活していましたが、そこでも本人は「陽が当たらない」等の居心地の悪さといった不満は口にしていました。周囲が本人の生活を維持するために奔走していることは、本人も分かっているので、感謝の言葉を口にすることもあります。しかし、日々の言動から聞こえてくるのは、不満ばかりです。
本人が困らないように、周囲が支える。問題が起きれば、周囲が解決する。本人が不満を訴えれば、周囲がその対応に追われる。その結果、本人は何とか生活を維持できています。では、こうした支援は、本当に本人のためになっているのでしょうか? 支えることが、本人の自覚を妨げていないか? 私は、現在の福祉の在り方に、一つの問題があると感じています。それは、障害のある人や支援を必要とする人を、常に「守られ、支えられる存在」として捉えてしまうことです。
もちろん、支援が必要な人を支えることは、福祉の大切な役割です。しかし、支えることと、本人が直面すべき問題まで周囲が引き受けてしまうことは、同じではないと考えます。本人が困らないように、周囲が先回りして問題を解決する。本人が自分の行動を振り返らなくても、生活が何とか成り立つようにする。そうした支援が続くことで、かえって本人の自覚を妨げているのではないか。私はそう考えています。
もちろん、支援が必要な人を支えることは、福祉の大切な役割です。しかし、支えることと、本人が直面すべき問題まで周囲が引き受けてしまうことは、同じではないと考えます。本人が困らないように、周囲が先回りして問題を解決する。本人が自分の行動を振り返らなくても、生活が何とか成り立つようにする。そうした支援が続くことで、かえって本人の自覚を妨げているのではないか。私はそう考えています。
今回のカンファレンスでも、私はこう伝えました。
「こちらは、やるべきことをやる。それでも本人が選択しない、あるいは生活が改善しないのであれば、それも本人の選択です。『人間は困らなければ変われない』のです。本人の要望をすべて受け入れることは違うと思います。」
私は、本人の意思を尊重することと、本人の要求をすべて受け入れることは、明確に区別する必要があると思っています。本人の意思を尊重するからこそ、必要な情報を伝え、課題を整理し、選択した結果についても本人が向き合えるようにする。それが、本来の支援だと思っています。
「こちらは、やるべきことをやる。それでも本人が選択しない、あるいは生活が改善しないのであれば、それも本人の選択です。『人間は困らなければ変われない』のです。本人の要望をすべて受け入れることは違うと思います。」
私は、本人の意思を尊重することと、本人の要求をすべて受け入れることは、明確に区別する必要があると思っています。本人の意思を尊重するからこそ、必要な情報を伝え、課題を整理し、選択した結果についても本人が向き合えるようにする。それが、本来の支援だと思っています。
「自主性を尊重する」という言葉の使い方に疑問を感じます。この問題は、障害のある大人に限った話ではありません。
例えば、子どもの自主性を尊重するという考え方があります。もちろん、子どもが自分で考え・判断し・行動する力を育てることは大切です。しかし、ゲームや動画に夢中になって夜更かしを続け、学校にも行けなくなってしまう。親がゲーム機を取り上げると、暴言や暴力で抵抗する。そうした状況に対して、発達障害などの診断がつき、障害福祉の支援に繋がり、果ては児童相談所のお世話になることもあります。ただ「自主性を尊重する」という言葉が、本人の望むことを何でも受け入れるという意味になってはいないでしょうか。本人の意思を尊重することと、本人の行動に何の制約も設けないことは違います。
例えば、子どもの自主性を尊重するという考え方があります。もちろん、子どもが自分で考え・判断し・行動する力を育てることは大切です。しかし、ゲームや動画に夢中になって夜更かしを続け、学校にも行けなくなってしまう。親がゲーム機を取り上げると、暴言や暴力で抵抗する。そうした状況に対して、発達障害などの診断がつき、障害福祉の支援に繋がり、果ては児童相談所のお世話になることもあります。ただ「自主性を尊重する」という言葉が、本人の望むことを何でも受け入れるという意味になってはいないでしょうか。本人の意思を尊重することと、本人の行動に何の制約も設けないことは違います。
人が社会の中で暮らしていく以上、そこには必ずルールと自由の限界があります。法律上の”自由”の定義にも”公共の福祉に反しない”という限界が定められています。家庭にも、学校にも、施設にも、病院にも、そして社会にも、それぞれルールというものがあります。子どもであっても、障害者であっても、支援を必要としていても、社会のルールを無視してよいということにはなりません。もちろん、ルールそのものが妥当なのか?本人の特性や事情に応じた合理的な配慮が必要なのか?と検討すべき場合はあります。
しかし、福祉の支援を受けていることが、”ルールを守らなくてもよい理由”にはならないのです。
しかし、福祉の支援を受けていることが、”ルールを守らなくてもよい理由”にはならないのです。
福祉は、ルール違反の言い訳にはならない。
私は、このことを支援する側も、支援を受ける側も、改めて考える必要があると思っています。
カンファレンスの前、弁護士とは挨拶を交わす程度でした。ところが、会議の後、弁護士・施設の職員が来て「こんなことに困っている。このままでは、いずれ支援を続けられなくなるかもしれない」と言ってきました。「本人の意思の尊重」という建前の基に、黙認(仕方がない)することが、福祉だと思い込んでいるように見えます。公然とお酒と煙草を嗜むことを隠さない本人に対して、何も言えない施設職員。
私は「施設のルールとして飲酒や喫煙が禁止されているのであれば、次のように本人に伝えてもよい」と助言しました。
「期限を決めて、それまでにルールを守れないのであれば、退去してもらうこともありえる」と。
施設には施設のルールがあります。それを守れないのであれば、今の場所で生活を続けることが難しくなる可能性がある。その現実を、本人にもきちんと伝える必要があると考えます。もちろん、退去を迫ること自体が目的ではありません。退去によって本人がさらに不安定な状況に陥ることのないよう、支援する側には慎重な判断と準備が求められます。施設の職員は、「本人は、今の所以外では、本人は暮らせない」と言います。今の所(ホーム)で暮らし続けたいのであれば、本人自身も、今の場所で暮らし続けるための妥協や努力も考えなければならない。周囲が支え続けることで、本人が自分の問題に向き合わないまま生活が維持されているのだとしたら、その状態をいつまでも続けることはできません。本人が自分の行動を変えなければ、今の生活を維持できなくなることもある。その現実から、本人を遠ざけ続けることが、本当に本人のためになるのでしょうか。
「実際に退所の可能性がある」ということになれば、本人も考えるでしょうし、自分の行動を改めることもあるかもしれません。その時はその時で、私たちも全力で考え・支援します。だからといって、今の生活を維持するために必要なことまで、周囲がすべて引き受ける必要はないと思います。本人を見放すことと、本人に現実を伝えることは違います。本人が自分の問題に向き合えるように、必要な情報を伝え、選択肢を示し、その結果についても一緒に考える。私はそれも支援の大切な役割だと思っています。
それでも、病院のソーシャルワーカーは「本人が選択する余地を残すべきだ」と主張しました。もちろん本人が選択できる余地を残すことは大切です。私もその点を否定しているわけではありません。しかし、私は、どうしても納得できないことがありました。それは、本人が選択できるように支援することと、本人が選択しないままでいられるように、周囲が支え続けることが、いつの間にか同じものとして扱われているのではないか?ということです。
「本人が『選択しない』という選択肢を排除する考え方は、違うと思います。本人には、選択する自由があります。同時に「選択しない」という自由もあるでしょう。しかし、本人が選択しないことによって生じる問題を、いつまでも周囲が引き受け続けなければならないのでしょうか?」という問いかけには、答えや反論は帰ってきませんでした。その発言はなかったことにする、これも最近よくある対応です。
本人が決めない。本人が行動を変えない。本人がルールを守らない。その一方で、周囲には、生活を維持するために何とかすることが求められる。これでは、本人の意思を尊重しているようでいて、実際には、本人が自分の人生に向き合う機会を奪っていることにもなりかねません。私は、このあたりに、福祉職の世代間の考え方の違いが表れているように感じています。
本人の意思を尊重することを重視する考え方と、本人が社会の中で生活する以上、責任や制約も引き受ける必要があると考える立場。どちらか一方が正しいと、簡単に結論づけられるものではないでしょう。ただ、私自身は、本人を支えることばかりに重点が置かれ、本人が自分の課題に向き合うことが後回しになっているのではないか? と危惧しています。私たちは、誰のために支援しているのか? 近年の福祉は「本人のために何とかしてあげたい、困らないようにしてあげたい」という姿勢が目立ちます。それは、支援に携わる人にとって大切な気持ちではあります。しかし、その思いが強くなりすぎると、本人が直面すべき問題まで、支援者が引き受けてしまいます。過渡期において、ソーシャルワーカーが疲弊し、所謂「もらい鬱(うつ)」というもので、多くも仲間が倒れました。本人が困らないようにすることが、いつの間にか支援の目的になってしまった。けれども、人は、失敗することもあれば、困難に直面することもあります。その経験を通して、自分の行動を振り返りながら、生き方を変えていくのです。もちろん、困らすことが良いという話ではありません。本人を危険にさらしたり、必要な支援を打ち切ったりすることが目的でもありません。必要な支援は、きちんと行う。そのうえで、本人が自分で考え・選択し・行動する余地を残す。そして、本人が選択しなかった場合も、その事実をなかったことにしない。自らが選択しなかったことを、支援者が責任を取る必要もない。自らが決断しないまま、支援が進むことで、本人は責任を持たず、、ルールも守らず、不満を口にするのです。
支援者は、本人の要望に応えることだけでなく、その支援が本当に本人のためになっているのかを、常に問い直す必要があると思います。本人を支えること。そして、本人に自らの人生に向き合ってもらうこと。このような考え方は、今や時代遅れの福祉観とされています。
相手を自分と同じ「人」としてとらえる考え方に対して、「患者・利用者・支援対象者・お客様」と呼び、自分と同じように考え・感じ・学ぶ「人」としては見ていないような今の考え方が、現代の福祉観です。そのような時代に、どう生きていくのか? 自身の将来も含めて、考えていく必要があると思います。
相手を自分と同じ「人」としてとらえる考え方に対して、「患者・利用者・支援対象者・お客様」と呼び、自分と同じように考え・感じ・学ぶ「人」としては見ていないような今の考え方が、現代の福祉観です。そのような時代に、どう生きていくのか? 自身の将来も含めて、考えていく必要があると思います。