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福祉の「今」と「昔」ジェネレーションギャップを超えて、制度だけでは埋まらない“支援の難しさ”

2025年8月10日 | column_wood

「昔の方がよかった」という声の背景

福祉という世界に40年以上携わってきた。最近古くからの友人や仲間から「最近の福祉は悪くなった」という話題がちょくちょく出る。
昔と比べるまでもなく福祉面のインフラ(制度や設備)は確実に進歩しています。それでも「昔の方がよかった」と思う理由は何なのか?
それは、人の価値観や支援への向き合い方に、時代の変化があるからです。

「子供は風の子」ではなくなった。

昭和の子どもは急な環境変化にも順応していました。私自身も暑さ寒さに耐えながら外で遊び、危険な遊具でも工夫して安全を確保していたし、大人がそれを許容していました。
しかし、現代は「安全性」「快適性」を追求するに過ぎて、本来「育つ(得られる)はずの能力」が得られない(育たない)子供が明らかに増えています。
暑ければ外遊びやプールが中止になり、寒ければ暖房の効いた室内で過ごすのが一般的。危ないモノが排除された環境で、危険認識も育つはずもなく、常に大人に守られた環境で育つ。
安全な環境は大切ですが、環境に合わせて自分の身体を調整する経験は確実に減って、ヒトとしての自律機能の低下は著しいモノがあります。
こうした積み重ねが身体だけでなく、社会や人間関係の変化にも適応しにくい子を増やしているのではないかと感じます。
そしてその影響は、家庭や親の関わり方にも表れています。

親の関わり方の変化

以前は「しつけは家庭で」という考えが一般的で、子供を叱るいうことは、親は当然として、悪いことをすれば近所の「大人に叱られる」というのは日常の風景でありました。
今は“怒らない育児”が広まり、強く叱ることに抵抗を感じる親も少なくありません。子育ての中で、親自身が「何が正しいのか迷ってしまう」というのです。
ひと昔の教育は「覚えることや真似(記憶と模倣)を重視し、「親の言うことをよく聞く」「決められたこと以外の余計なことをしない」子供が、手間のかからない「良い子」として
評価され、「自分で考える力」が育ちにくかった。そうして育った大人は「いわれたことだけやる」「マニュアル通りにする」という
生き方しかできず、社会人になり「マニュアル人間」「指示待ち世代」と言われ、社会に出てから大変な問題になりました。
その後に導入されたのが“ゆとり教育”です。当時は批判もあったものの、自ら考え、選択する姿勢を育む、教育はこの令和の時代になり、確実な結果を残しています。
今の社会に必要な力だったのかもしれません。

評価基準の変化と人間味の希薄化

福祉に限らず、かつては「できなかったことが、できるようになる」喜びを大切にしていました。社会全体が今に比べれば、不便な時代であり、現代のような「便利な時代」ではなかったからです。快適な生活を目指し、化学・技術・経済が発展し、現代は社会全体が豊かな時代になりました。
生まれた時から、この豊かな時代に育ってしまった人たちは、「できて当然」という価値観で物事を見てしまっています。
障害など不自由なことがあると、まず「できない理由を探す」ことから、支援が始まる傾向があります。
できない理由(原因)に目を向けるのも重要ですが、「できたこと」への評価も忘れてはなりません。
小さな一歩や努力を認めることが、人を支える力になるのです。
福祉現場でも「できて当然」という空気が広がり、誰がやっても同じサービス(公平性・サービスの均一性)が求められています。
こうしたサービスの平準化には、制度の安定という利点があるかもしれませんが、同時に、利用者や支援者の個性が置き去りにされ、人間的な温かさが失われるのではないかと危惧しています。
最低限の質を保ちつつも、スタッフの得意分野や経験を活かした柔軟な支援、人間味のあるサービスこそ、利用者が本当に望む姿ではないでしょうか。
マニュアルに縛られ、人間性を抑え込むような支援は、本来の福祉から離れてしまうと考えます。

「自分たちで考えること」

かつては「自分のことは自分でやる(考える)」という時代でした。介護は「(自分で)できないから支援を受ける」という考え方が主流です。
支援を受けることが「自分という価値の喪失」とだと意識している支援者が、いまはどれくらいいるのでしょうか?
「寄り添う感性が必要」という言葉は、制度や仕組みの進化が人の尊厳を奪わないための指針だと思います。「昔が正しい・今が正しい」とかを言っているのではなく、
どう在って・どう生きるべきか?<
人と人とのつながり。世代を超えて大切にすべき『人間らしさ』とは何か。いま一度考えてみることも大切なのでは?と思います。

writing by ueno-yuka