地域包括支援センターにて、主任介護支援専門員兼センター長として8年間勤務しました。地域包括支援センターは、2005年の介護保険法改正により制定され、翌年4月に前身である「在宅介護支援センター」から移行した組織です。私が支援センターに勤務し始めた当初は、まだ介護保険制度そのものが始まっていませんでした。現在は障害者支援の相談支援員をしています。相談業務は障害者施設の生活・職業指導員を経た後、おおよそ30年続けております。
相談員としての私は埼玉県にあった「在宅介護支援センター」で働き始めましたが、それ以前は障害者施設の指導員、授産所の指導員、そして医療ソーシャルワーカー(MSW)・老健の相談員を経験してきました。
学校を卒業して最初に就職した障害者施設には、平成8年頃まで約13年間務めました。そこは大正時代から続く歴史ある施設だったこともあり、現在よりも自治体との関わりが非常に密接でした。補助金と寄付金以外にほとんど財源がなかった時代ですから、イベントを開催するにも行政の協力や協賛が不可欠で、企画書を携えて市の障害課へ足繁く通ったものです。要は「少しでも予算を出してほしい」と陳情に行っていたのです。市の職員と本気で議論を戦わせることも珍しくありませんでした。
その頃、とある担当課長から掛けられた言葉が、今も私の心に深く突き刺さっており、現在の支援指針の原点となっています。
「趣旨は十分理解していますが、市にも余裕はありません。言葉は悪いですが、障がい者の方々に予算を投じても、社会的な生産性に直接寄与できるわけではないのです。無駄だとは言いませんが、財政に相応の余力ができない限り、これ以上税金を投入することは難しいです」
これは介護保険制度が始まるずっと前の話です。そして当時の私は、悔しくもその言葉にどこか納得してしまった部分がありました。「障がい者に予算を投じても、生産性には寄与できないのではないか」と。
当時は「ノーマライゼーション」という理念が普及し始めた時代でした。ノーマライゼーションとは、障がい者や高齢者を特別視せず、地域社会の中で当たり前に生活できる環境を整える考え方です。同時に、私たちの世代は「働かざる者食うべからず」「自分のことは自分でやる」という価値観のもとで育ちました。そのため、障害があっても自身の特性や強みを活かして働き、健常者と同じように生活することこそが「社会的自立」であると考えられていたのです。
東京コロニーや日本IBM、こころみ学園(ココ・ファーム・ワイナリー)などの取り組みをはじめ、かつて町田駅のマルイ(デパート)で館内アナウンスを担当していたのが、東京ヘレン・ケラー協会からの視覚障がい者の方々であったように、障害特性に配慮されながら一般社会と変わらず仕事と生活を両立させている人々がたくさんいました。
しかし2000年初頭に介護保険制度が導入され、2001年からの「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権下で各種規制緩和が進むと、福祉分野にも民間企業が参入しました。医療や福祉に経営と競合の原理が導入されて社会保障が「サービス業化」したことで、弱者であった障害者や高齢者は「お客様」へと立場が変わりました。これにより、福祉は“守られ支援される存在”へと変化していったのです。
制度が変わってからの20年間も現場で仕事を続けてきましたが、私自身はどうしても最近の「支援されることが前提」のような福祉のあり方に馴染むことができず、今も頑なに「ノーマライゼーション(主体的な自立)」の理念を大切に活動を続けています。
しかし、この考え方は現代の福祉の現場では理解されにくく、辛い思いをすることも少なくありません。私もそれなりの年齢になりました。いずれ利用される方々の中に「自立しようとする心」を感じ取ることができなくなった時が、私の引き時(潮時)なのかもしれないと感じています。